法土寺町曳山車小誌 

   
1.法土寺町由緒 
 町名は、もとの法土寺村放生津内川南辺の二の丸地区を含んだ地域で、久々湊・石丸・放生津の入会地字今堀に鎌倉時代末期に栄えた。当時の「時宗」の放生津道場「報土寺」に由来する。
 中世期には、報土寺(のちの専念寺)・光正寺(石丸山)が領内にあり、放生津守護所(放生津城)も近かった。「村名名附帳」(前田家文書)によれば、対岸の荒屋村と共に金屋村(牧野)の枝村とあり、正保4年(1647年)前田家古絵図には、村高34石が記入されている。享保年間(1716年~)山王社(日吉神社)と曼荼羅寺との間に「七間町」が出来る。
 
 時衆が時宗に変化
 鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。
 「一遍上人」も真教上人も教団に所属している僧尼を「時衆」と呼んでいます。 
 
 報土(浄土)
 報身仏の住する世界。阿弥陀仏の極楽浄土もその一。
 仏語あり、一切の煩悩(ぼんのう)やけがれを離れた、清浄な国土。仏の住む世界。特に、阿弥陀仏の住む極楽浄土。
 浄土宗は法然によって開かれた仏教の一宗派であり、称名(しようみよう)念仏(南無阿弥陀仏と口に称える)によって,阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを期す。
 
 踊り念仏と一遍上人
 『一遍聖絵』によれば、弘安二年(一二七九)一遍上人の一行が善光寺への遊行の際で長野県・佐久地方で踊り念仏を行なう姿が描かれています。そこに法衣に身を包んだ僧侶や武士たちが輪になり念仏を唱えながら踊る姿が描かれます。これが一遍上人の一団が踊り念仏を行なった最初とされます。なかでも一遍上人を一躍有名にした踊り念仏がありました。
 
 
 一遍聖絵01  一遍聖絵02
   
この「踊りながら念仏を唱える姿」から地元の盆踊りである「のじた踊り」が伝わっている。
 
2.法土寺町曳山由緒
 享保6年(1721)7月30日
 放生津八幡宮の本殿が竣工され、
竣工大祭が盛大に挙行された時に、未だ曳山7本であり法土寺町は出来てはいなかったと云われています。
 それから50年後の安永(1775)の頃には、法土寺町の曳山が参加したと云う記録がありますが、その3年後の安永4年(1775)には、高岡側との『曳山騒動』があり法土寺町外6町の曳山が当時の魚津奉行所へ没収され、祭りは見れなくなったが寛政13年(1801)には復活したと云われております。

 法土寺町の曳山車は、天明5年(1785)に造られたものですが、その後文化・文政(1803)時代の町民文化の隆盛は、曳山にも大きな影響を与えました。

 その中で庶民芸術の粋を集めた曳山は、地方文化の向上と共に、今の曳山の様式に変えられ、各町はそれぞれ曳山の新調改造を行いました。
 しかしながら、文化7年(1810)12月23日の夜、俗に言う『法土寺焼け』の大火で、法土寺町は全焼し、山車も焼失しました(野村屋旧記)。町内では再建の願望が強く、文化8年(1825)にようやく建造した山車が、現在のものであります。
 
 本座の王様には中国の武将、『玄徳・関羽・張飛』を祀り、高欄の内に安置され神の依代として、この街の守護神と崇拝信仰されています。
しかし、明治の末ごろ、山体を低く切り下げたことから『玄徳』を降ろして今は2体になっています。
 
 この王様と随神は、木彫り胡粉研ぎ出しの彩色された等身大の衣装人形で荘重の趣があり、中央の『カラクリ人形の猿』は山王神の使者・道案内として、観光客に親しまれています。

 曳山車全体は、彫刻・金具・彩色・図案など、年月と共に優美にして意匠をこらし、美術工芸の粋を集めて郷土文化の風格と伝統を大切に守りながら、誇りを持って今日に引き継がれております。

 宮大工は、塔堂の建築に渦を彫ることが必須の技術であり、そのことが粗彫り技術にも通じたと考えらます。言わば、虹梁(こうりょう)(※写真01)を彫る器用さが生かされたといえます。 城郭・神社・仏閣に関わる中で職人達はいろんな技術を学び大きく育っていったのです。
 
 
3.法土寺曳山車に関わった職人
(1)高瀬一門
 曳山を設計し、作成した中心人物は、高瀬竹次郎(加賀藩御用大工)であり、規矩術(きくじゅつ※説明02)にも長じ、彫刻や絵画にも精通していたと言われています。
 
   ※説明02規矩(きく)

1.コンパスとさしがねを活用し、寸法や形を造る。

2.考えや行動の規準とするもの。手本・規則
 
 写真01
 曳山の標識は『軍配団扇』で『竜・虎』の浮き彫り金箔仕上げであります。軍配は、いわば、『天下太平・四海安泰』祈る平和のシンボルであります。
   
   関羽・張飛・踊りの猿公は、井波出来。
(2)辻丹甫(つじ たんぽ)
 高岡漆器の元祖といわれる人物です。明和年間(1764年から1771年)頃に京都で修業しその後高岡に戻り、擬堆黒・擬堆朱、存星など唐風の漆器技法(いわゆる「丹甫塗」)を伝え高岡漆器の基礎を築き、1805年(文化2年)に84歳で没しました。
 法土寺町曳山中山から上山部の彫刻は、2代目丹甫の作と言われ、高瀬竹之助も修復にあたると記録にあります。
 鏡板には、中国那殷時代「父康鼎」なる者が【鐘鼎文】(しょうていぶん※説明02)を調査する様子を刻むとあり、油屋仁左衛門(当時の宮源の家で山王町在中と記)の寄付と記録されています。
  
   ※説明02

【鐘鼎文】とは。中国古代、殷 (いん) ・周時代の鐘鼎の銘に書かれている古文のこと。
(3)高岡 安川屋三右衛門(金具師)
(4)高岡 板屋小左衛門(塗師:丹甫一門)
 現在の曳山車は、昭和12年に彫刻・金具を含む全体を塗り箔し、その後部分的な補修を重ね、昭和43年9月新湊市文化財現状変更承認申請書をもって、補助を受け『高欄・殊連 ・地覆』などの大修理を行っています。尚、昭和37年には、現在の格納庫を建立し、現在の優雅にして華麗な姿を守っております。
 
4.提灯
 提灯は、7種類に分けられます。(1. 高張型提灯 2.長型提灯 3.丸型提灯 4. 卵型提灯 5.切長型提灯 6.小田原型提灯 7.カンス型提灯)とあります。
 法土寺町の曳山に使われている提灯は、中山の4角から吊す、「大型の小田原提灯」と夜に高山に6段で点灯する「丸形提灯」があります。
 「何故に提灯6段なのか」とよく聞かれます。各山町が競って提灯の段数を増やしていく中で法土寺町は先人が創ったままの段数を維持しています。
 正確な伝文はありませんが、「法土寺」(時宗念仏道場)という名前の由来や、曳山の神様の使いとしての「関羽・張飛」の由来から見ても、三国志時代の「儒教・仏教の意味合いからも、宗教的な意味から6段になっているものと想像されます。
 
 祭はその時だけの行事や祭事ではなく、過去・現在・未来と生活の節目として、感謝・御礼・連携・地域の伝統として守り育んでいくものです。「放生津」の意味は、生き物を放す(殺生禁断の地-奈呉乃浦)水辺(津)から来ております。つまり「生き物に感謝をする放生の心は、現代風に言えば「環境保護政策」と言えます。
 我々の先人の思いを「祭は伝えています」それらを内容をしっかり伝えねばなりません。
ただ単に「勇ましい・絢爛豪華」では一元的です。
 曳山にある「彫り物の意味・構造的な意味合い・曳山囃子の名前の由来など」取り上げることは多くあります。今後共守り育み伝統を繋いでいくためにも、皆様の御支援を賜りますようお願い申し上げます。
 
《「金瓮 (かなへ) 」の意》現在の鍋・釜の用に当てた、古代中国の金属製の器 
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 八幡宮祭りに、曳山が町々の名を持ち、町方で宰領する『各町の山』として、曳き出されているのは、曳山の創始を記録した、古文献では元禄5年(1692)をもって始めとしています。