法土寺町曳山の由緒
 ~ 曳山方ご挨拶~
  八幡宮祭りに、曳山が町々の名を持ち、町方で宰領する『各町の山』として、曳き出されているのは、曳山の創始を記録した、古文献では元禄5年(1692)をもって始めとしています。
享保6年(1721)7月30日放生津八幡宮の本殿が竣工され、竣工大祭が盛大に挙行された時に、未だ曳山7本であり法土寺町は出来てはいなかったと云われています。
それから50年後の安永元年(1775)の頃には、法土寺町の曳山が参加したと云う記録がありますが、 その3年後の安永4年(1775)には、高岡側との『曳山騒動』があり法土寺町外6町の曳山が当時の魚津奉行所へ没収され、祭りは見れなくなったが寛政13年(1801)には復活したと云われております。

法土寺町の曳山車は、天明5年(1785)に造られたものですが、その後文化・文政(1803)時代の町民文化の隆盛は、曳山にも大きな影響を与えました。
 その中で庶民芸術の粋を集めた曳山は、地方文化の向上と共に、今の曳山の様式に変えられ、各町はそれぞれ曳山の新調改造を行いました。
 しかしながら、文化7年(1810)12月23日の夜、俗に言う『法土寺焼け』の大火で、法土寺町は全焼し、山車も焼失しました(野村屋旧記)。町内では再建の願望が強く、文化8年(1825)にようやく建造した山車が、現在のものであります。
 曳山の標識は『軍配団扇』で『竜・虎』の浮き彫り金箔仕上げであります。軍配は、いわば、『天下太平・四海安泰』祈る平和のシンボルであります。

 本座の王様には中国の武将、『玄徳・関羽・張飛』を祀り、高欄の内に安置され神の依代として、この街の守護神と崇拝信仰されています。
しかし、明治の末ごろ、山体を低く切り下げたことから『玄徳』を降ろして今は2体になっています。この王様と随神は、木彫り胡粉研ぎ出しの彩色された等身大の衣装人形で荘重の趣があり、中央の『カラクリ人形の猿』は王様の使者・道案内として、観光客に親しまれています。 曳山車全体は、彫刻・金具・彩色・図案など、年月と共に優美にして意匠をこらし、美術工芸の粋を集めて郷土文化の風格と伝統を大切に守りながら、誇りを持って今日に引き継がれております。

現在の曳山車は、昭和12年に彫刻・金具を含む全体を塗り箔し、その後部分的な補修を重ね、昭和43年9月新湊市文化財現状変更承認申請書をもって、補助を受け『高欄・殊連・地覆』などの大修理を行っています
尚、昭和37年には、現在の格納庫を建立し、現在の優雅にして華麗な姿を守っております。