愛宕神社
1.鎮座愛宕社御神像について
  (1)調査の状況
  本殿内奥に厨子(ずし)が安置されており、その厨子内にさらに小型の厨子があり、その中に梅鉢紋の入った綿の袋に覆われた御神像が安置されております。御神像には、半球状のガラスの蓋がかぶせてありました。
 御神像と外気が触れないように工夫されていると考えられます。 御神像は、黒みがかった青銅色あり、中心の像が馬に乗った甲冑姿の仏体像で、その左右に二体の甲冑姿の仏体像が脇を固めています。高さ10㎝の御神像ではあるが、大きさの割に重量感があり金属製かと思われます。   
 (2)愛宕大権現の御神体とは
 愛宕大権現の御神体とは、勝軍地蔵菩薩と言い、「勝軍の神」として武家社会において尊崇され、地蔵尊とは言っても身に甲冑を着け右手に錫杖、左手に如意宝珠を載せ軍馬に跨がり勇ましい姿をしているそうです。その両脇には、不動明王と毘沙門天が祀られており、その三体を合わせて愛宕権現と称したそうです。
この大権現に鎮西八郎為朝公が、城の鬼門に安置し安泰を祈願したと伝えられています。
 「勝軍の神」ということから縁起のよい神として、火災消除・学業成就・家内安全だけではなく、地蔵尊と言うことから「安産の神」として親しまれているそうです。
2.棟札(むねふだ)について
 棟札(むなふだ、むねふだ)は、寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として、棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札である。典型的には、木の札または銅の板に記して釘で打ち付ける。
 中には建物の部材に直接記されることもあり、これを梁上銘(りょうじょうめい)と呼ぶこともあるが、趣旨は同じである。
 
 愛宕社棟札
   
  (1)愛宕社棟札の内容(むねふだ) 藤原姓高瀬射水輔短嗣:高瀬祐太朗
 今回の工事による遷宮において, 御神体の傍より発見されました。
 このことは、愛宕社創建時の正規の記録として、貴重な文化財であります。  
 内容については、誰が建てたのか!誰が遷宮されたのか!など貴重な事実が確認されます。

 棟札に出てくる宮大工棟梁「藤原姓高瀬射水輔短嗣」は、当時の宮大工棟梁「高瀬祐太朗矩嗣」(たかせ すけたろう のりつぐ)のことであります。
 「高瀬祐太朗」は、「射水補・助太郎・輔太郎・長瀬震輔」と名を持つ宮大工であり、四代前の初代「高瀬仁兵ェ」の直系で五代目にあたります。
尚、法土寺町曳山設計施工した「高瀬竹次郎」とは同門であり、正確ではありませんが叔父・甥の関係ではないかと思われます。
父の4代目「高瀬仁兵ェ」(仁平)は加賀藩絵図師として、専念寺・気比社・長栄寺・新町曳山・立町曳山などに関わる名工でありました。尚、「高瀬祐太朗矩嗣」の墓は、京都嵯峨の臨済宗本山:大覚寺境内にあり、墓名に「長瀬庵震輔」(ながせあん しんすけ)と刻してあります。

 高瀬祐太朗の業績は、文久3年(1863年)放生津八幡宮・弘化2年(1845年)大阪城修復肝煎・新町諏訪神社・大楽寺・本江加茂神社・曼荼羅時御経堂など、数々の業績を今に伝えています。
 
3.法土寺町愛宕神社由緒並古老伝説 
  (1)由緒
  愛宕神社は、「迦具土神を祭祀(さいし)し、その勧請は、町内年老家「四柳氏」が天正年間(1573年~1591年)に上京し、山城国愛宕郡愛宕神社に参拝し、神霊を拜載(はいたい)して帰国する。その後、吾廷内に安鎮するが、神威を恐れ「一宮気多神社内」に建築し尊敬する。しかし、弘化2年(1845年)放生津町大火が発生し、それがきっかけとなり、愛宕社社殿建設となったと下記の「愛宕社御由緒書」に記してあります。

 慶応2年(1866年)10月に町内総代「室屋久助外3名」の発起により、各町有識者より寄付を募り、翌年11月中旬造営落成する。(木札日11月12日)同月23日に遷宮の式を挙行する。
 その遷宮導師は、「一宮の慶高密寺 権律師法印 法海(ほうかい) 白蕭(はくしょう)によって行われる。
 天正元年(1573年)に京都から勧請して、慶応弘化2年(1867年)に建設したしたとすると、約294年間「伏木一宮気多神社内:慶高密寺に仮安置されていたことになります。
  (2)これまでの愛宕社修復工事
昭和31年(1956年)8月24日世話人会において愛宕社の社殿修築を決議する。 
同年9月15日工事に着手し、同月30日工事完了する。
10月3日遷座祭執行し、10月4日慶賀祭執行する。
棟梁は、「二上久雄」、大工は「加道徳三」外2名
 
昭和40年(1965年)8月には、愛宕社鎮座100年祭を記念に「記念石碑建納」する。
昭和47年(1972年)9月には、右大臣・左大臣を新調し放生津八幡宮よりお迎え納める。 
平成26年(2014年)9月には、鎮座150年祭に合わせて、愛宕社社殿・屋根など修理する。
            9月28日遷座祭を挙行する。(公民館より)
  (3)愛宕神社由緒覚え書き(原本)
   
     
     
 愛宕神社由緒  
4.150年の時代の流れと信仰 
 愛宕社創建後時代の変遷に崩壊することなく、先人の手によって守られて来た
「愛宕社」は、これからも恒久的に伝えて行かなければなりません。
 しかしながら、愛宕社に係る歴史的な意味合いも語り伝える義務があります。
 今回、愛宕社に関するほんの一部分ではありますが、歴史の記録として保存したいと思っております。
 (1)御神像:迦具土神(かぐつちのかみ)と神社・仏閣
  迦具土神(かぐつちのかみ)は、「古事記」では火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;迦具土命)と表記され、 「日本書記」では、軻遇突智(かぐつち)・火産霊(ほむすび)と出てきます。

 迦具土神の迦具(かぐ)は現代語で「輝く」を表す。又「(においを)かぐ」、「かぐわしい」という意味にもつながります。土(つち)は「つ」と「ち」に分けられ、「つ」は「日本の神話」などの表現として用いられる「の」の古語であり、「ち」は神などの超自然的なものを表す言葉であります。
 つまり迦具土神は、「輝く(火の)神」、「ものが燃えるにおいのする(火の)神」という意味であります。
神仏習合 (しんぶつしゅうごう)は、日本にもともとある神の信仰(神道[しんとう])と仏教の信仰が1つになった宗教の考えを言います。奈良時代には始まっていました。天満宮(神道)の土地に寺(仏教)があったのもその1例です。
「神仏混淆」(こんこう)とも言い、日本宗教史上、神道と仏教との交渉・関係を示す語です。
 神は神化して仏になり、仏の本地は神であり、神と仏は一体であるとの思想でありました。
 (2)愛宕神社由緒覚え書きと神仏分離
  神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させることであります。
 その動きは早くは中世から見られますが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令)があります。
 慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき全国的に、公的に行われたものを指します。
 
 「愛宕神社由緒覚え書き」は、こうした背景から、作成されたものであります。
 江戸幕府崩壊に伴い「宗教界」にも変化が起こります。棟札に出てくる「一宮の慶高密寺 権律師法印 法海(ほうかい) 白蕭(はくしょう)」の記述は、仏教の名であり、由緒書きの富山県への公文書提出は、「神仏習合」から「神仏分離」の国策によるものであったのです。
  (3)火伏せ・防火の神社としての役割
  私たちの先人達は、「火」を真の災害として恐れ、大切に日常の生活と共に「信仰」に導いた思われます。
 
神の助けを借りなければ、災害としての力を抑えることが出来ないと考えたのか!
私はそうではなく、神の力を「愛宕社」を創建し祀ることで 法土寺町民の意識を高めるこが目的のように思えてなりません。
 火迺要慎(ひのようじん)」の心情を勧請した先人の思いをしっかり受け止めながら、真の「火の用心」に努めねばなりません。
 編集者:法土寺町氏子   檜物和廣
 平成27年4月22日